アラフォーでニートになりました。

アラフォーで会社を辞めさせられ、未来が見えないニート(という名の自営業)が奮闘したりしなかったりするブログです。

3.11 東日本大震災から8年を経て思うこと

早いもので、もう8年も経つのですね。

あの日のことを思うと、色々な感慨が巡って言葉にできないことも多いのですが、今はせっかくブログもあることだし、少し整理できたものを書き出してみようと思いました。

 

私が住んでいるのは、福島県のお隣です。

海のないところなので津波の心配はありませんし、滅多に大きな地震もこない。

なのに、あの日はこれ以上にない非常に大きな揺れを感じました。

アラサーにして生まれて初めての大地震を体験したと言ってもいいくらいに。

 地震がきた時のこと

その当時は今の住居でなく、前に住んでいた祖父母の家で暮らしていました。

恐らく築30~40年くらいでしょうか、それなりに古い家です。

地震の揺れを感じた時、私は夜勤のために丁度2階の自室で仮眠を取っている時でした。

今まで感じたことのない揺れ方、ものすごい揺れの大きさに思わず飛び起きました。

当時は祖母が身体を壊して入院しており(この入院が、後に認知症診断され要介護になる切欠でした)祖父は丁度お見舞いに行っている最中。

ですが、この頃はまだ家に猫がいたんです。

もう結構いい歳だったと思いますが、まだ元気でした。

私はまだ揺れが続く中、慌てて1階に降りると棚や高いところから物が落ちたりしていて、見つけた猫も怯えていたので声を掛けて抱き上げ、ひとまず揺れが治まるまでずっと抱っこしていました。

 

TVを点けると、地震のニュースでもちきりです。

家族のことが心配なので、祖母が入院している病院に電話を掛けてはみたものの、案の定繋がりません。

こういう時回線が繋がらないのは知っていたのですが、連絡手段が他にないのでどうしようもなく。

入院している祖母は周りに人が沢山いるしまだ大丈夫だろうとは思いつつも、祖父が移動中に地震に遭っていたらと思うと気が気ではありませんでした。

TVでは津波の様子などもリアルタイムで流れていて、福島など海に接しているところに住んでいる人たちのことを思いつつ…

 

別の場所に住んでいる母とは、比較的早く連絡が取れたのでほっとしました。

時間が経ってから病院とも連絡がついて、祖父は病院のエレベーターに入った頃地震に遭ったようでした。

後程無事帰ってきて一安心。

祖父もこんな大きな地震にあったことはなかったみたいです。

土地柄、比較的地震に強くて、いつも地震速報などがあっても表示されている震度程揺れた感じはないぞ?みたいに思っていたので、震度5の激しさに驚きましたね…

仕事の方は、電話が来てその日は休みになりました。

地震の後にあったこと

瓦がずれて雨漏りが…

家に大きなダメージはなかったものの、激しい揺れで瓦がずれてしまったらしく雨漏りするように…

後で直して貰ったにも関わらず、やっぱり雨漏りしてました(笑)

2階に部屋があるのは私だけなので、なんだか家の中で自分だけ不利益を被ったような…

もう一度ちゃんと見て貰うよう祖父に再三要請したのですが、結局新居に引っ越すまで雨漏りを我慢するしかなかったです。

雨漏りしている部分がほぼ床で、水を受け止める器を置いておけばなんとかなったからまだしも…

計画停電

電力が足りないということで計画停電が施行され、生活や仕事に影響がでました。

当時のシフトは夜勤だったので、私自身は勤務体制にはあまり影響がなかった(ちょっと時間をずらしたりはしましたが)のですが、他の社員さんとかは身軽な人は機械を稼働できる夜間に来たりして、なんとか凌いでいました。

 

停電の番が回ってくるのは、昼間が多かったような記憶がありますね…

昼間家で過ごしている時は、停電している時間に電気を使わないように工夫したり、停電中は冷蔵庫を出来る限り開けないとかは心掛けていました。

夏場じゃなくてよかったなぁ…

避難と風評被害

隣県だったのもあり、福島から避難してきた人も沢山いました。

私自身は接点はないですが、自分の生活圏にも避難している方々がいたようです。

今はどうされているのか、元のお住まいに帰れたのか…

こちらで仕事を見つけて定住を決めた方もいるんでしょうね。

 

あと、放射能がどうこうというのに地元も巻き込まれましたね…

そういう風評被害を流す輩は、馬鹿だなぁと思って見ているだけでしたが。

こんな狭い日本でそんな風に騒ぐのだったら、あんたの住んでるところも危ないんじゃない?と。

そんなに危険だと思うなら外の国へ逃げてどうぞ。という感じでしたね。

どの道自分はここで生きていくしかないと思っていたのもありましたし、地元ですら危険だったらもうどこへ行っても同じだろうと。

(ちなみに計測では正常値だった模様)

 

でもさ本当、いわゆる「放射脳」とか呼ばれる人は本当にろくでもないなぁとずっと思っていました。

被災地の方々がどれだけ努力して苦労して、害がないことを証明しても捻じ曲げて危険性を吹聴する。

現地の方の努力のお陰で、どこよりも安全なものになっていましたね、福島の食材は。

最近はどういう風の吹き回しなのか、福島危ない説を喧伝していたところも論調を変えてきているとか。

えぇ…今更?と白けた気分でいますが、今までの風評被害に対しては知らん顔を決め込むのかな。

でも言われてた人たちも、周りで嫌だなぁと思って見ていた人たちも覚えてますよ。

せめて謝意の姿勢でも見せてくれたら、少しは白い目も和らぐかも知れませんが…まあ無理かなと思っています。

調子のいい人たちだ、本当に。

被災地のこと

今はもう避難していた人たちも戻って、被災前のように暮らしている人もいるのでしょうが、やっぱり爪痕は大きいのかなと。

前述の風評は和らいできているとはいえ、地震の被害は元より津波で失われてしまったものを元に戻していくのは時間が掛かるでしょうし。

それに、当時もうお年を召していたかたは、避難先で亡くなってしまった方だっています。

私の印象の中ではその最たるが、鉄腕DASHに出ていた明雄さんでした。

いつか…を願っていた、DASH村と明雄さん

明雄さんは福島市内に避難し、そこでも畑を作って浪江町に帰れる日を待っていた。

あの頃は、いつかDASH村が再開できて、また明雄さんも一緒に村づくりに携われる日が来ればいいなと思っていたけれど、それは叶わず。

Wikipediaを見ると、亡くなったのは2014年だったんですよね。

震災からそんなに早くに…と思うと本当に残念です。

でも震災時にもう80歳超えてましたしね…

DASH村育ちの犬の北登も、2017年に亡くなってしまいました。

鉄腕DASHであの村づくりをやっていた頃、私は夢中になって見ていた。

もうきっとあんな番組はないんだろうなぁ、あっても私がTVをほぼ見ないし。

あれから8年、いろんなことがあり、いろんなものが変わった。

勿論変わっていないものも(よくも悪くも)あるけれど…

 

来年、私は同じように3月11日を迎えられているだろうかと、やっぱり考えてしまいます。

この先どうなるか分からないけれど、やっぱり未来が見えない。

失業給付を貰える期間には限りがあるし、収入が途絶えてしまったらどうすればいいのか。

仕事は沢山あるよと言う人もいるが、田舎で条件の悪い仕事でも要求が高すぎてどこにも雇ってもらえない、誰にも必要とされない人間はどうすればいいのか。

人に雇われて働くことに恐怖心や嫌悪感を持ったままで、一体何ができるのか。

どん詰まりですよ。

 

それでも日は暮れるし時は流れていくのだなぁ。

どうしたらいいのか考えながら、今できることをするしかないのだろうなと思いつつ。

とりあえず猫の写真を眺めて癒されます(こちらはお馴染み写真ACより)

新聞の上で眠る猫

私にも夢があります。

いつかまた、猫と一緒に暮らしたい。

でも動物と暮らすのって結構お金が掛かるから、そのためにはどうしたら…というところからなんですよね。

はぁ…もう本当いろんな方面から搾取されて絞りカスの疲れきり状態なので、その分費やしたものを返して欲しいな。

一体どこに請求すればいいんだ。

誰に助けを求めたらいいんだ。

中途半端なところにいると、さっぱりなのです。

とりあえず検索を使って無料で募金しておこう

今の時期になると、Yahoo!で検索すると募金ができるページが話題になりますね。

fukko.yahoo.co.jp

お金の余裕がない人でも、時間をほんの少しだけ割いてちょっと検索するだけで何かの助けになる。

大きいところがこういうことをやってくれると、助かります。

 

企業がこういうのをやると、明後日な批判を飛ばしたりする人もいるけれど、その人たちには出来ないことをしている分はきちんと評価したいですね。