アラフォーでニートになりました。

アラフォーで会社を辞めさせられ、未来が見えないニート(という名の自営業)が奮闘したりしなかったりするブログです。

「生まれてこなければよかった」と思った時のこと

雨と水溜り

生きづらさを感じている人の中には「生まれてこなければよかった」と思ったり感じたりしたことのある方も、少なくないと思います。

私も40年近くの時間を過ごしてきて、そんなどこまでも辛く虚ろな世界が広がっているような、四方が奈落の底に落ちるしかない崖の上に立っているような思いに苛まれることが何度もありました。

その何割かは、よく覚えてはいません。

よくカウンセリングなどで忘れていた辛い記憶が心の根底にあって、自分の心を苦しめる原因になっていた…なんて話も聞きます。

人は無意識のうちに忘れることで自分の心を守ろうとしたり、傷を癒そうとする心理が働くのでしょうね。

 

なので、私もひどく辛い思いをしたことのうち幾らかは忘れてしまっているのでしょう。

今回はそれでも忘れられない、何か切欠があって度々思い出してしまう思い出をひとつ、お話します。

そういった忘れられない苦痛や悲しみを抱えている方が読まれると、ご自分の記憶がぶり返して辛い思いをされてしまう方もおられるかも知れません。

私も、そんな方にこの話を通して伝えたいことを書きたくてキーボードを打っている訳ですが、もし途中で辛い、無理だと思われた場合は、読むのをやめてください。

その傷を完全に癒したり克服するには、向き合わなければならないこともあるでしょう。

けれど、それは今でなくともいいと思うのです。

大切なのは「自分の意思で決めて、それを実行するという気持ち」なのですから。

 憂鬱な雨の日に思い出すこと

「雨が降ると思い出す」みたいなフレーズが様々な作品などで使われるように、雨は人の記憶を呼び覚まし易い切欠なんですね。

単純に雨の日でも、他にも条件が重なることで思い出すこともあります。

今回の件を思い出すのは、あまり寒さを感じない頃の長く続く雨の時が多いでしょうか。

その時の季節は覚えていないのですが、多6月の梅雨の時とか、初秋の頃ですかねぇ。

「私は家族じゃないんだな」という思い

私がまだ小学生の低学年の頃のこと。

平日学校へ行っている間に、母はまだ小さかった弟だけを連れて遊園地と迎接されている動物園へ行っていて、帰ってからそれを知った私はひどくショックを受けました。

お土産のつもりだったのか何かは分かりませんが母は当時流行だった動物のおもちゃなどを買ってきていましたが、それも弟が遊んでいたし、まるで自分だけのけ者にされたように感じてしまったのです。

今思うと、もしかしたらここで「真面目に学校に通っているのは馬鹿らしい」という意識もの種も、どこかに植え付けられたのかも知れません。

 

私と弟は、半分しか血が繋がっていません。

母が離婚して新しく出来た父との間に生まれたのが弟です。

結婚する時、祖父に「母と私を幸せにする」と頭を下げた筈の父は仕事を転々としており、私ともあまり折り合いがよくはありませんでした。

そんな訳で新しい家族が出来ても、私に母しか頼る相手がいなかったのですが、その母も時々私の仕草が気に入らないらしく、(曰く変な咳をするとか)どうにもならないことで責められたりしていました。

別にネグレクトではなかったし、世に聞く強烈な毒親程のものではなかったですが。

でも、振り返れば小さい頃から病んでしまう素は、夜露の雫のように少しずつ私の中に落ちてきていたのでしょうか。

 

小一くらいの頃には夜泣きをしていましたが、それが治まった後は「手の掛からないいい子」だったようです。

自分ではよく覚えていませんが、きっと弟を育てながら仕事もしていた母に手間や心配を掛けたくなかったのでしょう。

そうやって頑張って「いい子」をして真面目に学校に行っていたのに、母と弟はそんな私を差し置いて動物園へ遊びに行った。

ある程度成長して、それぞれが自立した年頃だったらそういうことがあっても別に平気だったのでしょうが、当時まだ幼かった自分には、それが受け入れられませんでした。

家族の筈なのに仲間外れにされたような疎外感を覚え「ああ、私はやっぱりこの家の家族じゃないんだな」と感じたのです。

あの時感じた失望、絶望感は、恐らく当時より時を経て色々考えられるようになった後の方が、深く暗いものを抱えるようになってしまったと思います。

 

戸籍上は家族だし祖父との約束もあるので、大人になるまでは面倒を見てくれるだろうというのはなんとなく理解しつつ、私は次第に将来のことも、生きていくことも考えられなくなっていきました。

それがいずれ「15歳になったら死のう」と思うようになる原因のひとつではあったのでしょう。

雨の中、大切な思い出を捨てに行った

学校に行っている私を差し置いて遊びに行った母と弟に対してショックを受けた私は、恐らく許せないという気持ちではなく胸にぽっかりと大口を開けた虚無感のようなものを解消するため、ある行動に出ました。

 

当時のカメラはまだフィルム式だったのですが、雨の日にこのフィルムを自宅から離れた場所に捨てに行ったのです。

きっとそのフィルムには、動物園で撮られた弟の写真が入っている。

そう意識したら、何も考えられませんでした。

実際私が持ち出したフィルムの中に、その写真が入っているかどうかは定かではなかったのですが、そんなことまで考えていられる程の余裕もなく。

絶え間なく降り続く雨の中、私は傘を差して外に出ました。

 

子供の足で行ける範囲なんて、たかが知れています。

家からはそう離れていない水溜りに、そのフィルムを捨てました。

家族からのけ者にされた、必要とされていない事実は消えませんが、ひとまず自分でももどうにもできない感情を抱えた私は、思い出の形を消すことでそこに留まることが出来たのです。

 

後で母からフィルムのことを知らないか聞かれましたが、知らないと答えました。

そうして写真を現像される前に亡き者にして気が晴れたかといえば、そんなことはありません。

思い出す度に、心の中は真っ暗闇に塗り潰されました。

母も弟も、世の中のなにもかもなくなってしまえばいいのにと、思ったことさえあります。

自分なんて生まれてこなければよかったと。

出産の時、予定日を大きく過ぎても生まれる気配がなかったと聞かされていた私は「生まれる前から、こんな思いをすることになるのを知っていたんだ。だから生まれてきたくなかったんだ」と思うようになっていきました。

 

自分が受ける理不尽な扱いと今なら生きづらいと表せる苦しみ、テストが解けても面白いとも思えない勉強。

机に向かっても取り組めない宿題。

そういうものがずっと重く圧し掛かって、私の足は成長と共に自殺の方向へと進んでいきました。

それはあなたのせいじゃない

私の場合は失敗しましたが、最近では若い層の自殺が多くなっていると聞きます。

きっとみんな、目の前に横たわっている問題が大きすぎて、圧し掛かってくるものが辛すぎて、そこから逃れるために他に方法がないから、死を選んでしまうのだと思います。

「自殺はよくない」?

そんな言葉では、死という安楽に逃げ込もうとする人のことは救えません。

今そうして苦しんでいる子たちに、かつて苦しんでいて、今も痛みを抱えている人たちに言えるのはたったひとつ「それはあなたのせいじゃない・あなたのせいじゃなかったんだ」ということです。

 

弱肉強食の野獣みたいな環境で勝ち上がった人は、自己責任だなんだと言います。

でも、そうではないでしょう。

生まれる親の許や周囲の環境は、誰も選べないのです。

どうにも出来ない、しようがない頃に植え付けられてしまった苦しみは、本来専門家の許で長い治療を経なければ癒えてはいかないものです。

それは決して、そのひとの責任でなってしまったものではありません。

 

強者の理論がお好きな方は、今すぐ野生に還ればいいのです。

私は人の、助け合える人の社会で生きていきたい。

子供時代を苦しみ続けてきた人たちにも、同じように安心できる場所を、傷付いた羽を休められる場所を作りたいです。

もう一歩先へ進みたい

そういった経緯や想いがあったからか、しょぼい喫茶店のことを知った時には感銘を受けました。

昔夢見た、生きづらさに苦しんでいる人たちがお茶を飲みながらゆったり過ごせるような場所が、本当に実現しているのだと。

地元のすぐに行ける場所にもそういう場所が欲しい。

始めはそう思っていたものの、ブログやTwitterを続けるうち周りの人に次第に感化されたのか、自分でも出来ないだろうかと思い始め、今はお店を開くことを目指している。

 

でもお金がありません。

雇っても貰えず、これから始める手芸品で本当に食べていけるかも分からず、もしかしたら来月・再来月には死んでいるかも知れません。

そんな状態では…と、夢を持ちながらも途方に暮れています。

チャンスがあれば掴みたいと思ってみても、そんな機会はそうそうなく、気ばかりが急いて苦しくなるばかり。

やっぱり、ここは私が私としては生きられない世界なのか。

いいように利用されて、搾取されて使えなくなったら終わりなのか。

どうにか先に進みたいのに、堂々巡りを繰り返しています…