アラフォーでニートになりました。

アラフォーで会社を辞めさせられ、未来が見えないニート(という名の自営業)が奮闘したりしなかったりするブログです。

5月、死にたい人が多くなりがち?

初夏の青空としゃぼん玉

 5月も中旬を回り、もう夏の様相ですね。

今時はまだ湿度がそこまで高くないので、日陰や風通しのいい場所は涼しく過ごせて助かるのですが…

夏がどれくらい暑くて厳しくなるか、先が思いやられます。

 

さて、お外はそんな清々しい気候なのですが、最近急激に検索で訪れる方が増えた記事がありました。

それがこの二つ。

www.arafoneet.com

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 どちらも「死にたい」という言葉が入っています。

 

あー…

5月病という言葉があるくらいですし、死を考える人が増えてしまう時期なのかも知れませんね。

丁度新しい環境で暮らし始めてからある程度経ち、それが合わないとか辛い・上手くいかないことがあるとか、ひとつの区切りから始まった流れの中で問題に突き当たっている方も、いらっしゃるのだろうと思います。

 

まず言っておきたいことといえば、「死にたい」と思うこと自体は悪いことではないです。

(その辺りについては、二番目の記事に書いてあるので「死にたい=悪いこと・否定しなければならない」みたいに考えて辛くなっている方は、そちらを読んでみてくださいね)

 

「死にたい」と思っている人は、個人的に一番自分の「生」と向き合っている状況なんじゃないかなと思っています。

どんな状況、どんな理由で死を望んでいるか。

それ自体は、人によって違うでしょう。

その苦しみは、当たり前ですがその人しか当事者になれず、誰も全く同じ感覚や感情を味わうことは出来ません。

だからこそ、その周囲の人や社会も「自殺なんてけしからん!」と思考停止するのではなく、安楽死も含めた自殺・自死について真面目に考えなければ頃なんじゃないでしょうか?

 「いつでも死ねる」状況に安心できる人もいる

以前、Twitterでこういう呟きを残したことがあります。

 いわゆる「普通の人」は自殺を後ろ向きに捉えがちです。

でも、必ずしもそうとは限らないし、今の日本には新しい考え方が必要なんじゃないかなって思うんです。

 

日本の学校教育は、まるで社会の歯車にでもするかのように協調性や従順さを育て、個性や自由な発想、自立心を奪っていきます。

早ければ小中学校の頃から、古臭い体制の部活動などで奴隷根性を仕込まれてしまう子供たちも…

彼らがなんとか社会に出ても、今は低賃金のブラックな職場環境が蔓延っています。

一体どれだけの人たちが、学校で学んだことも役に立てられず、使い潰されてしまったことでしょう。

 

もし心身を壊して収入を得られなくなっても、水際の福祉に助けられて永らえることを、公僕である筈の人たちが阻んできます。

試しに「生活保護 餓死」でググってみてください。

本来ならだれでも申請出来る筈の生活保護を、職員に阻まれて死に追い遣られてしまった人々の話がゴロゴロ出てきます。

少ない収入の中からヒイヒイ言いながら税金を納めてきても、落ちぶれればすげなく足蹴にされるのです。

人権ってなんだ?って思いますよね。

 

それに、少子化だなんだと言いながら、偉い人たちや世間は子供やそれを産み育てる筈の世代を大事にしません。

こんなこと続けていたら、まあ滅ぶよね。

でもそういう人たちってきっと、どうにもならなくなってから慌てて騒ぎ出すだけだと思います。

なんのあてにもなりません。

 

だったらさ、もう死んだ方が人間としての尊厳も守れるんじゃない?

と言われてもまあそうだよねぇって思うしかないじゃないですか。

今の日本にこそ、自発的に安楽死できる方法が必要なのではないか

自殺を考えても、静かに穏やかに、周囲に迷惑を掛けず息を引き取る方法なんてそうそうありません。

私はこれが余計よくないと思うんですよね。

先日大阪の駅前で起きた投身自殺だって、本人に何か世間に主張したいことがあるでもないのなら、もっとひっそり死にたかったのではないかと、考えてしまいます。

 

だけど現実は、自殺となれば発覚した際には多少の差はあれ事件として扱われ、人の目耳を集めたり知った人の心を痛ませたり、後片付けをする人たちにも負担を掛けてしまう訳で。

死を望んでいる人って、別に誰かに迷惑を掛けたり、衆目を集めて騒がれたい訳じゃないと思うんですよ。

ただ死んで現状から解放されたい、楽になりたい。

単純に今この場から消えてしまいたい、自分という存在を消滅させてしまいたいという場合もあるでしょう。

「死んだ」「いなくなった」という事実と状況だけあればそれでいいのに、自分が死ぬ前後の煩わしさが余計にその人を苦しめてくる。

悪循環でしかないと思います。

 

今力を持っている人たちが社会をよくする気がないのであれば、せめて苦しまず自死できて、後処理なども楽な方法を設けるべきですよ。

今のこの社会は「人間」が生きるには酷すぎる。

 

そしてこの項の冒頭に戻るのですが、「自分はいつでも死ねるんだ」と安心できれば、そこから最大限力を発揮してすごく伸びる人もいると思うんですよね。

戦国時代の武将ではないけれど、負けたら死ぬ、失敗したら死ぬと思っていた方が、自分のポテンシャルを発揮できるといいますか。

「死んだつもりになって」「死ぬ勇気があれば云々」ではダメなんですよ。

そんなのはなんのモチベーションにもならない。

実際に「いつでも死ねる環境」が整っていないと。

人間は必ず死にます

実も蓋もないですが、人間っていずれ絶対死にます。

天地がひっくり返ってファンタジーなものが現れるか、科学がものすごく進歩して不老不死になる方法が出てこない限りは。

 

でもね、祖母の亡くなる間際を見て思ったんですよ。

認知症だったり、人工呼吸器なんかに繋がれてもう夢か現か分からない、意識もあるのかないのかよく分からない状況で心臓が動いていたって、それは果たして「生きている」ことになるのかと。

「尊厳死」という言葉について、考え込んでいた週末でした。

 

人間らしく生きるって、どういうことなんでしょうか?

死ぬ瞬間くらい、自分で決めたいとは思いませんか。