アラフォーでニートになりました。

アラフォーで会社を辞めさせられ、未来が見えないニート(という名の自営業)が奮闘したりしなかったりするブログです。

社会から死ねと言われているような気がする。

屋上のフェンス

どこにも雇って貰えない、誰にも必要とされていない、雇われる以外で食い扶持を探す道も展望が見えない…

苦しい状況を思い悩んでしまうと、他に何も考えられなくなってしまう。

まさに貧すれば鈍する。

こんな状況で明日は、来月は生きているのだろうか?そう思うだけで辛く、この苦しみから逃れたい、死にたいと思ってしまいます。

本当にどうしたらいいのでしょう?

 

本当は面接に行くのも嫌なのです。

私が頑張って長いこと働いてきた経歴を馬鹿にして、鼻で笑った人のことを思い出してしまうと動悸がします。

どんなに頑張って勤めていても、正社員じゃなければダメなんだそうです。

正社員で取ってくれなかった、昇格させてくれなかったのは雇った側の都合なのにね。

正社員でなければダメなのだったら、どうして正社員を減らして非正規雇用の枠を広げたの?

こんな社会にした奴らに、何の理解もなく馬鹿にしてきた奴らに、激しくどす黒い憎しみが沸いてきます。

『無敵の人』がどうやって生まれてくるのか、身を以て体感しているようです。

不寛容な世の中を、自分ひとりではどうにもならないことを自己責任だと押さえつけてくる馬鹿どもを、どうして愛せるでしょうか。

 ネットの上でまで不寛容な世の中を助長するのか

Twitterで行間開け縦長ポエムみたいな自己啓発を垂れ流す人たちがいて、非常に迷惑していたので片っ端からミュートしているのですが、それでも目に入ってきてしまう程多くてうんざりしていました。

その目に入ってきたへたれポエムの中に「反発に遭って諦めてしまうのは自分の想いが弱いから」みたいなものがあってふざけんなと思ったんですよね。

こんなところまできて、また自己責任かと。

Twitterの中でも、そういう心無い自己責任論に反意を唱えて戦っている人たちがいます。

そのお陰で、現実に打ちのめされて死にそうになっている人間も息をすることが出来る余地があるのですが…

(別界隈で単に自己責任という言葉そのものを使っていても、文脈を見ると実は単純にそうではないって分かる人のことは別なんですけど)

似非なんちゃらエンサーを目指す連中は、そういう柔らかな場所さえもも打ち砕きたいようです。

さすが、フォロワーを数としてしか考えていないだけはありますね。

どこかから教えられたノウハウに従ってフォロワー増やしに躍起になり、人の関心を集めるような尤もらしいことを言いながらも、人の心なんてとうに捨てているのでしょうかね。

 

生まれた環境や時代も自己責任だというなら、せめて自分で選ばせて欲しかったなぁ。

助けが必要な弱者が、見つかり難い現実

bunshun.jp

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この対談を読んで、ものすごく苦しくなってしまいました。

『KKO』と呼ばれるそうですが、キモくて金のないおっさんの怨嗟は、今の不寛容な社会をより蝕んでいるのだろうなと感じます。

でも、彼らも被害者なんだ。

キモくて金と権力のあるおっさんどもがやりたい放題してくれたお陰で、弱者のおっさんまで冷遇される。

悪循環で救いもない。

そのとばっちりは、他の弱い存在に向けられるんです。

地獄しかない。

社会をよくしていくには、まずこういう取り零された人たちを救わなければ、その手が足を掴んでいる人たちも救われない。

けれど見た目だけでは判別しようもないのに、どうやってこういう人たちを見つけて地獄から引き上げられるのか。

 

慈善とか福祉とかを標榜する団体は、ちゃんと困っている人を見つけて助けてあげて欲しい。

ネットでイキって逆張り炎上マンと化した藤田某先生とかには、全く期待できないんですけどね…

あの人、本当に社会的弱者を助ける気があるの?

ただ自分に酔っているだけにしか見えない。

時給上げろっていうなら、まず自分の事務所スタッフの時給上げなさいよって思いますし。

困っている人を助けるという熱意に溢れた人は、どうかあの人みたいにならないでくださいね。

参考にすべき人を挙げろというなら、明石市長の泉さんを見習って欲しい。

 擦り減ってしまう心をどうしたらいいか

こうしてお金も職もない人間は焦りや苦しみを感じて、どうしたらいいのかも分からなくなってしまう訳ですが。

今は目の前にあることをひとつひとつ片付けていくしかないんでしょうね。

もがきながら生きている自分が、どこかに何かを見つけられるのか、今は全く分かりませんが…

私にしてみれば、生まれてきたことも15歳で死に損なった後ここまで生きてしまったことも間違いなのかも知れません。

それでもまだ、死んでいないので。

何かを掴むためには無為な日々も必要なのかも知れないと、少し思う次第です。